先日、「考える」ということについて考える機会がありました。
田舎暮らしを楽しんでいる方のお家にお邪魔させてもらうことになり、山奥に探検に出かけたり、鶏のたまごを取ったりと1日遊ばせてもらったのですが、その夜のたき火でのこと。
考えるということ
一斗缶に薪や枯れ木を入れてたき火をしていたのですが、弱まった火の勢いを復活させようと竹筒で一生懸命息を吹き空気を入れていました。
それを見た家のご主人が、「一生懸命やるだけじゃなくて、しばらくやって上手くいかなかったらなぜ上手く行かないかを考えて色々試さんといけん」と。
火の勢いが強まらないなら、灰が溜まって酸素の通り道が塞がってるんじゃないかとか、今の火力で燃えるものがないんじゃないかなど、考えること試すことはたくさんあるだろうと。
それ以前にもナタで薪を切っている時も、単にやり方を教えてくれるだけではなく、なぜ今のやり方では上手く切れないかを考えろと言われました。
興南高校野球部の話
それで思い出したのがこの話。
なんでもない日常の小さなことに気づくことが、大きなことを達成させることにつながるんだよ。
甲子園連覇を成し遂げた高校の監督のお話です。就任時は野球部はひどいありさまだったらしいのですが、野球以前の生活レベルから変えていき強豪校に育てたのだとか。
そのエピソードのひとつにあったのが、部員には毎朝散歩をさせてそこで気づいたちょっとしたことを1分間スピーチさせたのだそうです。
最初は何の工夫もないことしか言えなかったものが、継続していくことで細かいことについても観察し考えることができるようになったのだとか。
一見関係なさそうですが、これは野球の成績にもかなり根っこの部分でつながることがありそうです。さらにはその他の分野全般にも。
考えるというレベル
何か検討する必要が生じた時に、さぁ考えようか、というのはすごく表面的なものなんじゃないかと思います。
そういった特殊な場面だけではなく、生きている中のありとあらゆる時間に観察して考えて調べてみる、それを地道に続けることが地頭の良さみたいなものにつながるのかと思いました。
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